venerdì 31 maggio 2013

デカメロン - Decamerone



デカメロン
デカメロンは1349~51年にジョバンニ・ボッカッチョによって書かれた有名な作品です。そしてこれはイタリア文学においても大変重要な作品の一つです。
この作品は、黒死病と呼ばれた恐ろしい伝染病ペストが蔓延するフィレンツェの街から逃れ、近くの村での生活を余儀なくされた、3人の少年と7人の少女による10人のグループのメンバーが日ごと交替で語った物語という設定でボッカッチョによって書かれた100編の短編小説集です。そこでの生活とは、歌や踊りで遊んだり、教会へ行き神様に祈ることでした。そんな中で彼らは毎日集まり、たくさんの物語を語り合ったのでした。
毎日順番で彼らの内の一人がその日の王または女王となり、その王(女王)にはその日のテーマを決める権限が与えられました。

デカメロン

そして、王(女王)が選んだテーマにそって全員が物語を作り、語り合ったのです。それは10日間続き、やがて100編の物語になりました。デカメロンは創造力と独創性にあふれた、そしてまた豊かな娯楽性にも富んだ作品です。
読者に、並はずれに魅力的な1300年代の文明や文化の全貌を余すところなく語ってくれます。





in italiano

日本語訳 福島かほる



イタリア語でイタリアについ知りましょう

イタリアの歴史やニュース、 雑学や四方山話などをもっともっと知りたい!という時、イタリア語で読書を楽しんでみませんか? www.studiamo.com の“イタリア発見”にはレベル別に様々な読み物があります。
アクセスフリーです。どうぞ楽しいひとときを!

lunedì 27 maggio 2013

イタリアの祭り ー 聖アントニオの火祭り

I fuochi di Sant’Antonio

アンツィ:聖アントニオの火祭り

毎年6月12・13日の2日間、バジリカータ州の州都ポテンツァにあるアンツィという小さな村では、古くから人々に愛されてきたお祭りが行われます。 その日はもともと宗教的祭日なのですが、お祭りは宗教的なものから娯楽性の強いものまで、たくさんの行事で構成されています。なかでも最も人気があって盛り上がるのが火跨ぎの行事です。
イタリアの祭り 聖アントニオの火祭り
イタリアの祭り 聖アントニオの火祭り 
イタリアの祭り ー 聖アントニオの火祭り 
イタリアの祭り 聖アントニオの火祭り
イタリアの祭り 聖アントニオの火祭り
火跨ぎの行事のための準備は6月初旬に始まります。村の青年たちは地区ごとにグループを作り、村を取り囲むように自生し、この時期良い香りの花を咲かせるエニシダの枝をたくさん集めます。そしてそれを干して乾燥させます。

6月12日お祭り当日の午後、アンツィのそれぞれの地区では、あらかじめ選んでおいた小道の角や小さな広場などに、青年たちが乾燥させておいたエニシダの枝と薪を積み上げます。 夜になっていよいよお祭りが始まり、8時頃には聖人の肖像を乗せた2基のグーリアと呼ばれる神輿が聖アントニオ教会を出発します。グーリアは2人の青年によって運ばれ、その後ろに楽隊を引き連れて村中を練り歩きます。

2基のグーリアはそれぞれ違うルートを進みますが、その途中でエニシダの焚火に行く手を阻まれることになります。それを飛び越えてゆかなければ先に進むことができません。

焚火担当の青年たちは競ってほかのグループより大きい、観衆を驚かせるほどの焚火を熾そうと頑張ります。それはグーリアと楽隊を自分たちの焚火の前で少しでも長くひきとめるためでもあります。こうして自分たちのグループの強さと火の持つ力を見せつけるのです。

イタリアの祭り 聖アントニオの火祭り
イタリアの祭り 聖アントニオの火祭り
グーリアを運んでいる青年たちのうち何人かは、エニシダが燃え尽きるまでそこで待ち切れずに、火の勢いが強いうちに焚火を飛び越えようとします。(それはまれに成功します) グーリアと楽隊が焚火を飛び越えるまでの間、そこでは酒と軽い食べ物がふるまわれ、人々はグーリアと焚火、聖人をたたえる歌や踊りで盛り上ります。

火の勢いが収まり、チャンスがやってくると、経験豊かで勇敢な青年は歓声の中、2人で火に挑みます。重い木製のグーリアをおたがいの肩に乗せ、焚火の上を飛び越えるのです。

2基のグーリアはそれぞれのルートを通ったのち、揃って聖アントニオ教会に戻るため、最後に教会広場で落ち合います。しかし教会前広場では火跨ぎ行事のメインイベントともいうべき巨大な焚火が彼らを待ち受けています。祭りはこの巨大な焚火越えのフィナーレを迎え、最高潮に達します。

Credits: Tonino Cianciarulo (c)

日本語訳 福島かほる

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venerdì 24 maggio 2013

ドロミーティ・アルプスを歩く (5)

宇都宮 和代

<5>


Zoppè di Cadore 方面から見たM. Pelmo
Zoppè di Cadore 方面から見たM. Pelmo                  
二回目と三回目に試みたトレッキングについて簡単に述べたい。まずは一番はじめに紹介したコルダーイ山(Monte Coldài 2403m) とはペルモ山を挟んで反対側、つまり裏側からペルモを眺める趣向で、登山口直下にあるヴェネチア小屋 (Rifugio Venezia al Pelmo 1946m) にたどり着くコース。つまり、ペルモに登りたい人はこの小屋を起点とすることになる。

出発点のゾッペ・ディ・カドーレ(Zoppè di Cadore 1461m)からは往復でほぼ4時間。この道もほかの数ある山道同様、「第一次大戦時」(per la Grande Guerra del ’15-18) につくられた「古の軍用山道が元だから、快適」(... è facile e comoda, su strada di origine militare...) と解説書が書く。あの時代、優雅な山歩きなどではさらさらなくて、徴兵されたまま多くが命を落としたであろう若き兵士たちの痕跡は、地元の人々ならくまなく追跡するのも可能だろう。でも、我らは活字を拾ってわずかばかりに後追いし、この美しい自然の中でねえ、などとため息をつくだけである。
M.Pelmo 登山口周辺
M.Pelmo 登山口周辺
 さてこの日は傾斜もわずか、ほぼ平坦なかなり広い山道で、ところどころに動物の往来を遮断する柵が設けられている。実際、カモシカなんぞにこそ出会えなかったものの、あちらの林では首に鈴をつけた牛が寝そべり、こちらの山の上では裸馬の群れがいっぱい、といった具合で、人里はなくとも生活の匂いに事欠かない。それでもストックを二本持ち肌は晒さず、扮装だって山行きのちゃんとした男たちがあちらにもこちらにも……。つまりは、かれらこそが山男で、たとえその日は散歩してたって、ヴァカンス登山者たちとは一線を画すのだ、やっぱりねえ。

昼食後、もう動くのはヤダ、という相棒をヴェネチア小屋に残したまま、ペルモ山の登山口を探ってみた。トレッキング・ルートから外れて少しだけ脇に入り、一路細い道を登っていく。誰も来ない。それでも小屋から15分も歩けば着いてしまう、はずだ。あとちょっと、ちょっとだけ。やがて木々も草も消え失せて、真っ白な細かい砂利ばかりになり、足元が滑る。滑らないところをどこにも見つけられない。危ない!こんな軽装登山靴ではダメなんだ、きっと。だけど、そろりそろりであっても、急傾斜の、その直前まではどうにかして行ってみたい。そこから頂上までは7時間だと冊子にある。近景も遠景も、ここまで来ると、どちらも景色ががらりと変わる。気のせいか、下界とは異なる危険な気配がにわかに立ち上り、警鐘を鳴らし始める。でも壮大だ、なんか、すごい、美しい。

後ろから、中年男性が独り、登ってきた。颯爽とした早い足取り。昼から頂上まで登るの?まさか……?だって荷物がわずかだし。こちらは颯爽、なんてまるでダメ。終始へっぴり腰で、にわかに心細くもなってきて、急傾斜の「直前」までだってたどり着けそうもない。ここは君子危うきに近寄らず。足首でも挫いたらコトである。諦めてまた、そろりそろり。引き返して一見落着した。やっぱり残念だ。

I SENTIERI DI ZOLDO    RIFUGIO VENEZIA (Alba Maria De Luca) AL PELMO (1946m)
  • Difficoltà: facile, anche per bambini
  • Tempo: ore 3-5 AR
  • Dislivello: 400 m
  • Segnaletica CAI: 456, 493, 471
  • Acqua: sì, lungo il percorso
  • Posti di ristoro: rifugio Venezia
  • Punto di partenza: Zoppè di Cadore
  • Anche invernale (CASPE): sì

Fifugio Remauro の駐車場=ホンダのエンジンを搭載した(?)イタ車
Fifugio Remauro
の駐車場=ホンダのエンジンを搭載した(?)イタ車
三回目のルート。前日のヴェネチア小屋コース途中でたまたま出会った山男の一人が親切にも教えてくれたルートをたどってみることにした。「行けば360度の景色を楽しめるよ」。それ、いいではないの。レマウロ小屋(Rifugio Remauro 1532m) までは車で行ける。そこから五人乗りのミニバスに乗る。運転手はやや年増の痩せた精悍な感じの女の人で、山ガールのなれの果て、という感じ。曲がりくねった狭い山道を慣れたハンドルさばきでかなりな速度で登っていく。一車線、しかも谷側にガードレールがない!怖い。バーを握る手に思わず知らず力が入る。絶え間なく無線で連絡を取りあっているのは、下ってくるバスと隘路で鉢合わせしないためである。日光のイロハ坂みたいなジグザグ斜面を登りきれば、バスの終点から目的地の山小屋は目の前だ。10分ほど歩いて上までたどり着くと、本当に展望がいい。谷間の集落も、奥へと続く街道も、小さな小さな湖も、もちろん並み居るドロミテ山塊も、みんな見える。もしかしてTre Cime も見えるかも、と期待したけど、これは駄目。途中にある山々に遮られ、この高さ(2177m)では無理、残念だ。

ドロミテ小屋(Rifugio Dolomites) は登った中では一番立派な施設である。中のバールの親父さんに話を聞いた。小屋には8人部屋がいくつもあって、新婚さん用の部屋だってある。宿泊案内のパンフをくれた。いつか泊まろうか?楽しいかも、きっと……。山頂に鉄塔がある。工事中の人々がいる。周囲の山を従えたペルモ山の威容もここから見たら、また格別だ。
帰途は、バスには乗らず、同じ道を歩いて下山。時折通過するバスが巻き起こす濛々たる砂塵に悩まされつつ、7kmほど歩いて無事に駐車場にたどり着いた。傍に木工品の作業場と直売所がある。その隣、林の中には、山岳パトロール隊の若者が墜落死した、その鎮魂碑がヘリの無残な残骸とともにひっそりと佇む。そのまわりを子どもたちが駆け回り、脇で若い娘が燻製肉を売っている。香料を一面にまぶした肉を見つけた。見るからにおいしそうだ。いっぱい買い込んだ。旅の終わりの荷物の底に忍ばせて帰国しよう。旅の土産をやっと見つけた思いだ。成田で税関に見つかったらことだけど、それは運を天に任せることにしよう。幸い、無事に持ち帰ることができた。美味しかった!
Rifugio Remauro (1532m)
Rifugio Remauro (1532m)

Rifugio Dolomites (2177m) から遠望したDolomiti
Rifugio Dolomites (2177m) から遠望したDolomiti

一昨年のアオスタ渓谷滞在時にはモンブラン(Le mont Blancイタリア語ではモンテ・ビアンコ Monte Bianco 4807m)を仰ぎ見た。マッターホルン(Matterhorn 同じく、こちら側ではチェルヴィーノCervino が山の呼称 4477m)を裏側から眺めることができる。他にも知らぬ者とてない4000m 級の山々が連なり、町にはスキー客を当てにした高級ブティックさえあって、夏でさえ何げに華やいだ雰囲気が漂う。西北部域一帯は、国境越えの峠ひとつでさえ、数々の歴史に彩られ、紀元前の頃からすでにあまねく知られた要衝地点である。対するにドロミーティ?はてな?と思った人は私だけではないだろう。旅の途中でイタリア人以外にあまり行きあわなかったのは多分偶然ではないだろう。日本人?今回は一人も見かけなかった。たった一週間の、ほんとうにわずかな滞在だったから、そもそも予備知識も碌になかったから、そうしていまだに全容を把握できないでいるから、おさまりのつくようなことが書けないでいるけれど、普段着の人々と語れたことは悪くなかったし、垣間見えたことも少なくなかった。この次はちゃんと準備をして、知識も蓄えて、また出かけたい、あの尖った山々に。
 

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mercoledì 22 maggio 2013

Musei nel Piatto




digital diary of italy



Musei nel Piatto è un progetto sui musei gastronomici dell'Emilia Romagna.

Museo dell'Aceto Balsamico Tradizionale - Spilamberto
Musei del Cibo - Provincia di Parma
Museo Casa Artusi - Forlimpopoli
Museo del Vino - Montecchio Emilia


lunedì 20 maggio 2013

Federigo degli Alberighi (Prima parte)

Dal Decamerone (1349-1351) di Giovanni Boccaccio (1313- 1375)
la novella di   

Federigo degli Alberighi

Boccaccio scrive il Decamerone nell’italiano del Trecento chiamato “volgare”; questa che proponiamo è una sintesi, nell’italiano contemporaneo, di una novella adatta a studenti di livello elementare 

ボッカッチョは“Volgare(*)” と呼ばれた1300年代のイタリア語でデカメロンを書き上げました。ここでは、イタリア語初級レベル(a beginner’s class ビギナークラス)のみなさん向けに現代イタリア語で要約したデカメロンの中の物語のひとつ、フェデリゴ・デッリ・アルベリギを掲載します。
(*)Volgareは、当時ラテン語に対しての俗語という位置づけでした。


Prima parte

日本語へ
Federico degli Alberighi
Federigo degli Alberighi è un giovane fiorentino di ricca e nobile famiglia che si innamora di Monna Giovanna, una delle donne più belle di Firenze, ma già sposata e con un figlio. Federigo per conquistarla organizza feste, partecipa a tornei cavallereschi, spende tutto i suoi soldi, ma non ottiene nessun risultato perché Monna Giovanna, bella quanto onesta, rimane fedele al marito. Quando finisce tutti i soldi, Federigo lascia Firenze e va a vivere da solo, in dignitosa povertà, in una casetta in campagna vicino alla città.
In campagna porta con sè solo il suo bellissimo e amatissimo falcone. Oltre ad essere bravo con le armi, a Federigo piace moltissimo, infatti, anche andare a caccia con il falcone e il suo falcone è un ottimo cacciatore.
Poco tempo dopo Monna Giovanna rimane vedova: sua marito, infatti, si ammala improvvisamente e muore lasciando erede del suo ricco patrimonio il loro unico figlio.
Quando arriva l’estate Monna Giovanna va a trascorrerla con il figlio nella loro casa in campagna, abbastanza vicina a quella di Federigo. Qui il figlio di Monna Giovanna incontra Federigo, diventano amici e vanno spesso a caccia insieme con il falcone. (continua)
(fine prima parte) 日本語へ

Federigo: forma antica del nome Federico
Monna Giovanna: parola usata nel Medioevo che significa “signora”, quindi signora Giovanna
Torneo cavalleresco: spettacoli con competizioni e giochi con armi fatti da cavalieri
Falcone: è un tipo di falco, piuttosto grande, usato nei tempi passati per la caccia.
Vedova: una moglie dopo la morte del marito.

Esercizi

1. Rispondi con si o no

  1. Federigo e Monna Giovanna si amano?
  2. Federigo cerca, senza successo, di conquistare l’amore di Monna Giovanna?
  3. Federigo va a vivere in campagna con il suo falcone?
  4. Monna Giovanna si ammala improvvisamente e muore?
  5. Il figlio di Monna Giovanna diventa amico di Federigo?

2. Unisci le frasi che hanno lo stesso significato

1. Monna Giovanna, una delle donne più belle di Firenze
2. Monna Giovanna, bella quanto onesta
3. Bellissimo e amatissimo falcone
4. Il suo falcone è un ottimo
a. molto bello e molto amato
b. cacciatore molto bravo, eccellente
c. è fra le donne più belle di Firenze
d. è bella e onesta nella stessa misura

3. Completa con il verbo giusto

  1. ................... l'amore di una donna/un uomo
  2. non .................. nessun risultato
  3. al cacciatore piace .............. a caccia
  4. .................. il patrimonio del padre
  5. ...................... amici

(verbi: ereditare, diventare, conquistare, ottenere, andare )


Le soluzioni di questi esercizi sono in "Soluzioni esercizi BLOG" nel sito: www.studiamo.com



Decamerone

- lettura livello elementare -

 
Il Decamerone è una importante e famosa opera letteraria italiana scritta da Giovanni Boccaccio tra il 1349 e il 1351. E’ una raccolta di cento novelle che un gruppo di giovani, 7 ragazze e 3 ragazzi, raccontano a turno. Questi giovani, infatti, scappano da Firenze per sfuggire a una terribile epidemia di peste nera e si rifugiano in un campagna lì vicino, dove per passare il tempo cantano, ballano, giocano, pregano e, soprattutto, raccontano novelle. Ogni giorno, uno di loro, il re della giornata, sceglie un tema e tutti devono raccontare una novella con quel tema. 
Il Decamerone è un’opera ricca di creatività, originalità e divertimento che offre ai lettori una straordinaria e interessantissima panoramica della cultura e della civiltà del Trecento .

日本語へ


          Parole chiave 
  1. novella: breve racconto
  2. epidemia: diffusione di una malattia infettiva
  3. a turno: uno alla volta, uno dopo l’altro
  4. giornata: tutto il giorno, da mattina a sera

Esercizi 

1 Scegli la risposta

  1. Il Decamerone è...
    1. un romanzo
    2. una novella
    3. un libro di novelle
  2. A raccontare le novelle sono...
    1. un gruppo di giovani
    2. un gruppo di ragazze
    3. un gruppo di ragazzi
  3. Questo gruppo di giovani fugge da Firenze per evitare...
    1. di scappare
    2. di sfuggire alla peste
    3. di ammalarsi di peste
  4. Il re della giornata sceglie ogni giorno...
    1. uno di loro
    2. le novelle
    3. il tema delle novelle

2. Trova l’infinito dei seguenti verbi

  1. è ......................  
  2. raccontano ................  
  3. scappano ...................   
  4. si rifugiano .............   
  5. cantano .................. 
  6. ballano ....................   
  7. giocano ....................   
  8. pregano ..............    
  9. sceglie ..................    
  10. offre ...............


3. Come si dice? Completa!

  1. racconto lungo = ...........................................
  2. racconto breve = ...........................................
  3. tanti racconti insieme = ...........................................
  4. chi scrive il racconto = ...........................................
  5. chi legge il racconto = ...........................................
autore – novella – raccolta – lettore - romanzo 


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martedì 14 maggio 2013

ドロミーティ・アルプスを歩く (4)

宇都宮 和代


<4>

毎日暑い。山の中だって暑い。夕刻、渓流沿いの散歩道で出会った老夫婦はヴェネチア市民。彼らは夏の盛りは毎年ここで過ごす、そうだ。「暑いねえ」という話と、ベルルスコーニ批判で意気投合した。というより、この話題を振り向けると乗ってこないイタリア人を私は知らない。ベルルスコーニ氏はもちろん、ちょっと前のイタリア首相で、現在もまた性懲りもなく政権を狙っていて、こんなに有名で、こんなに話題に満ちた人物は他にはいないだろうと思わせる、老練かつ信じがたいほどしたたかな政治家である。金と女、これにまつわる数えきれないほどのスキャンダルを本人だけは物ともしないのだから、呆れる。呆れる、を通り越して感心してしまう。こんな無責任な感想は、利害関係がない他国人だから言えることだが、演説はうまいし、なんか、憎めない。独裁者ムッソリーニもこんな風なタイプではなかったのかな?は、これも無責任な個人的感慨だ。

6年ほど前、イタリア滞在中に、ベルルスコーニ夫人ヴェロニカが夫のライバル紙(彼はイタリアのマスコミを牛耳ってもいるのだ)で左翼系の『ラ・レプッブリカ』(”La Repubblica”) 紙で公開した夫宛の手紙とその経緯を報じたあれこれの記事を、辞書を片手に隅から隅まで読んだことがある。これまた女性がらみの馬鹿げたエピソードだけれど、政治家のスキャンダルをイタリアのマスコミが大きく取り上げるということ自体意外だったし、「みんなの前で私に謝れ」という妻の要求に、夫が即座に謝って、それこそアッという間に事態が収束してしまうこの国の風土に興味を惹かれた。その意味ではとっても印象的な出来事といえた。

2007年1月末、『ラ・レプッブリカ』は第一面でベルルスコーニ夫人ヴェロニカが同誌に宛てた手紙の全文を掲載した。このいつも派手な男は、あろうことかある「公の」パーティーで若い女性に「もし僕が独身なら君とすぐにでも結婚するのに」と声をかけた。当時70歳。このセリフが切り札になる。長年に亘っていろいろと目をつぶってきた元「ファースト・レディ」はその我慢の限界を超え、政敵の新聞に投書するという手段を選ぶ。何を?「私的にではなく公衆の面前で私に謝れ!」彼女は「妻」たち全員を代表して夫たちに文句を言っているばかりか、これ以上の「沈黙」は我が娘、息子たちの未来をも毒する、と宣言する。夫はもちろん一言も反論できない。すぐさま(その翌日に)全面降伏する。そのキャラメルのように甘いセリフが(左翼的でない)他の新聞に掲載された。「親愛なるヴェロニカへ、ほら、これが僕の謝罪文だ... 僕は君には逆らえないよ... 僕たちはこれまで人生を共にし、三人の素晴らしい子どもたちに囲まれ、愛し合ってからの日々を一緒に生きて...」云々。『フィレンツェ』紙コラム曰くー「この数日、我々は他の話題を語らなかった」。

政治家のスキャンダルと言えば珍しくもない、というのが日本人の平均的な感想だろう。一昔前、某日本国首相のみっともない(=完全に男を下げた)狼狽というか、醜態振りも記憶に新しいし、クリントン元アメリカ大統領の女性問題弾劾騒ぎも忘れられない。こちらの方は何やらいう特別捜査官があまりにもネチネチとしつこく追求するので、大統領のかなりスキャンダラスな行動にも拘わらず、むしろ彼を擁護したくもなったものだ。さて、ヴェロニカは書いていたー「私の娘に教えたい、男たちと関わって己の尊厳を守らなければならないことになったらどう振舞うべきかを...、わが息子の手助けをしたい、女たちとまっとうで対等な関係を結べる人間になるために...」。この「ヴェロニカ事件」は、でも、彼がどのようにたくさんの女性たちと浮名を流していたか?などでは全然ない。真実きっと底知れぬ浮気者なんじゃないかとは想像がつくものの、その種の興味に焦点をあてた報道は影も形もない。そんなことで騒ぐ習慣はこの国にはない。騒ぎは一にかかって、「政治家のプライヴァシーが公の話題になり得る」という驚きにある。クリントン騒ぎのときも、「アメリカ人は何でこんなことで騒いだりするの?」がこの国の人々の反応だったのだ。今回は事情が違う。なにしろ当事者がそれを望んだのだ。だから夫の謝罪と同時に騒ぎはさっさと一段落してしまった。ベルルスコーニ夫人は元作家である。抗議文が格調高くなったのも無理はない。彼女の行動はあっぱれだ。それにしてもこの男、限りなく話題に事欠かない。整形手術もして皴取りしたというから優男(になりたがり)ぶりも半端でない。当時、あの美しい夫人が自らにどう決着をつけるのか?も話題になった。クリントン夫人のように「彼女もいずれリーダーになるつもりかも」と書いた観測記事を読んだ。この夫も、しかし図太い。事件の数日後にはこう放言したー「女のことはもう沢山だ。ゲイの話はまた別だ」-同性同士の婚姻を認める法案が上程されそうなのを踏まえた発言だ。「ゲイなんかどうせ左翼ばっかりだしー」と口を滑らせて、「私たちは右翼なのに!」とゲイ・グループに文句をつけられて、これまた紙面を賑わした。

話が横に逸れたので、元に戻す。「イタリア人は政治が好き」と教えてくれたのはフィレンツェで昔教わったイタリア語の先生だ。散歩をしていたヴェネチア市民夫妻も例外でなかった。政治が好きな、もう一組のペアについて書いてみたい。出会ったのは四度目のトレッキング時。「黒い森」という名の山小屋 (Rifugio C.ra di Bosconero 1457m) を目指したそれで、観光案内所のお兄さんのこれまたお勧めのコース。ガイドブックには初心者向け(facile anche per bambini) で、森の中を歩くから暑くなく、標高差は650m しかないラクチン・コース、のはずだった。道路脇のポンテセイ(Pontesèi 825m)を出発し、無料駐車場から直接山道に入る。ひたすら登った1時間ほどは問題なかった。登山者に会うのも稀だし、日差しが遮られて帽子もいらないし、快適そのもの。なのに、大きな谷に突き当たり、コースを見失う。谷の向かい側に行くべきだろうが、左を回るか、それとも右か。あれこれ偵察してもわからない。わが友は動けなくなりそうな気配が濃厚だ。そこに本当に折よくありがたく、シニアの三人組が現れた。イタリア人男性二人、フランス人女性一人。この辺りの山は知り尽くしていますよ、といった雰囲気ありありで、ガイドブックにない、人の踏み跡さえない道なき道を突っ切って難なく幹線コースまで連れ出してくれた。

二時間半で山小屋に到着。この小屋はなんとかいう(名は忘れた)国立大学と提携しての「環境保護」活動ではよく知られた施設である。昼時だ。美味しそうな匂いが辺りに漂う。屋外のテーブルでは、もろ肌抜きになって日光浴をしつつ、ワインなど飲んでくつろぐ山男たちで賑わう。子どもは?いたいた、一人だけ。幼稚園ぐらいの年頃の女の子が草と戯れている。ヤギが二匹、男たちに追われて走り回る。ほどなく先ほどの三人組が出現。「お昼は山の中で済ませた」と言いつつ「一緒にワインを飲まないか?」なるほど、これがシニアの山行きだ。レストランで食べれば食費がかさむ。山小屋の食事が里より高いわけではないが、里であろうがなんだろうが、ファースト・フードでないちゃんとしたレストランは、安くはないし時間もかかる。飲み物はそうじゃない。山で飲む100円からせいぜい150円のコーヒー(エスプレッソ)が十分においしい。

見ると一人が双眼鏡で眼前の絶壁をいつまでもいつまでも凝視している。「ほらほら、あそこで三人がロッククライミングをやってるよ」。見せてもらったが、私の目は衰えすぎて双眼鏡をもってしても役にたたない。切り立った崖はサッソ・ボスコネーロ山(Sasso Bosconero 2468m)。その山頂は山小屋からは1000mも上にある。

                  “おしゃべり好きな山男”氏                      
三人組に引率されてまたまた道なき道を下山した。歩きながらいろいろ事情を教えてくれたのはリタイアして8年になるという話好きなイタリア人男性である。「しゃべりながら歩くのがイタリア流山歩きだよ」。なるほど、歩く速度は早くても、おしゃべりするためか、それともこちら側の事情を配慮してか、しょっちゅう立ち止まる。このおしゃべり氏はこの辺りに別荘を持ち、ヴァカンスは毎年きっちり三か月間。とっても優雅、信じがたく優雅だ。そういえばそろそろ彼らの大好きなポルチーニ茸の収穫期だ。夫人は今日は体調を崩し、“別荘”で休養の身である。もう一人は「スキーでオリンピックにも出たことがある」山岳ガイド氏で、フランスで教師をしていた女性とは山で「知り合った」。籍は入れてないけど、今は夫婦。一緒に暮らしている。

彼らにはいろいろ世話になったので、宿に帰って5人で炭酸入りビールで乾杯した。おまけに何となく誘われて、その日は夜9時開始の「講演会」にも参加することに。講師はテレビでも活躍する名の知れた作家で、演題は「イタリアの財政赤字について」。30歳を越えたばかりの若い市長さんがわざわざ司会を務め、大層盛会だったが、数字の羅列ばかりだったし、話も細かすぎて大方は頭を素通りし、眠気を抑えるのに苦労した。こんなつまらなそうな演題で夜中のホールが満員になる。イタリア人は本当に政治が好きなのだ!
 Rifugio C.ra di Bosconero (1457m)


I SENTIERI DI ZOLDO  RIFUGIO CASERA BOSCONERO (1475m)
Difficoltà: facile, anche per bambini
Tempo: ore 3-4 AR
Dislivello: 650 m
Segnaletica CAI: 490
Acqua: si
Posti di ristoro: rifugio Casèra Bosconero
Punto di partenza: sp 251 in loc. Pontesèi
Anche invernale (CASPE): sì


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mercoledì 8 maggio 2013

ドロミーティ・アルプスを歩く (3)

宇都宮 和代

<3>

この地方のある小さな町の小さな博物館で見かけた詩を紹介しよう。
IL MIO PAPÀIl mio papà era lontano
a lavorare
ma a Natale sarebbe tornato
e io l’aspettavo.
È tornato prima di Natale
ma io non ho potuto aspettarlo:
siamo andati via
prima di Natale
io, la mamma e la nonna.
Non è stata colpa nostra, papà.
Ti vorremo sempre bene.
19世紀後半にやっとのことで統一を果たした後も、イタリアは豊かな国では決してなかったから、ほかの同様の事情を持つ国々(日本だって例外ではないが)と同じく、国内外への出稼ぎや移住者があとを絶たない時期が長く続いた。童話でアニメにもなった『母を訪ねて三千里』の主人公、マルコ少年がイタリア出身だったと私が再認識したのはとっくの昔に子どもではなくなってからのことだが、この詩はそうした歴史的事情を物語ってもいる。どこか「遠くで働いていた」少年の父は、年に一度、「クリスマスに」だけ帰還するのを習いとする。その彼が出稼ぎを中断して急ぎ故郷へ帰らなければならなくなって、でもそれは残してきた家族全員の不慮の死を確認するためだった。「僕も、ママも、おばあちゃんも、もうパパを待てなくなったけど、どうか元気でいてほしい」……わかりやすい、そうしてむしろ過激に感傷的なことばではあっても、この詩は事件の悲劇性と時代性を表現して余りある。この町の名はロンガローネ(Longarone 474m)、少なくとも私にはなじみがなかった地名である。

丘の上から眺めた Longarone の町
丘の上から眺めた Longarone の町
ゾルド渓谷を流れる渓流、マエ川 (T. Maè) は左右の山並みに強いられくねくねと曲がりつつ、やがて主流のピアーヴェ川 (Fiume Piave) に合流する。この川は南下してヴェネチア近くでアドリア海にそそぐのだが、この二つの川の合流地点にロンガローネの町がある。町の対岸、つまり東側も本流のすぐ傍まで山(高い丘というべきか)が迫っていて、しかも両側が垂直に切り立ったその思いっきり狭い狭間を別の渓流チモリアーナ (T. Cimoliana) が流れて、これまたピアーヴェ川に合流する。山と山の間隙が極端に狭いから、その間をコンクリートで塞げば簡単にダムができる、そう考えた人たちがいた。そのダムが決壊した、発電をまだ始めもしないうちに。異変は丁度40年前の真夜中に起きた。2000人の命を奪った。原因は護岸工事の不備、というごく単純なもので、責任者は当然のこと処罰の対象となり、刑務所に収監された。その後、町は再建されたが、鎮魂の為、そして悲劇の記憶をとどめる遺品や写真をおさめるべく小さな博物館が建設された。
正確に言えばダムが決壊したのではなくて、人口湖周囲の土砂が一晩で崩れ、そのため、みるみる盛り上がり溢れ出た湖水が闇の中、一瞬にして眼下の町全体を飲み込み、約ダム現場はその後、当時のままに放置される。干上がった湖も、ダムの巨大かつ頑丈なコンクリートの壁もそのままに、今では一種の観光地になっていて、事情を知るおじさん達が訪れる人々に、言葉巧みに説明しながら、粘土で自作した(らしい)ダムの模型などを売りさばいている。その傍らでは、道路に沿って延々と、とりどりの色あせた布切れが、その一枚一枚に死者の名前と年齢が書かれた無数の四角い布が、書かれた数字が端的に示す死者の無念すぎる若さが、幼さが、風にはためいて哀切きわまりない。
土砂が堆積したまま放置されたダム
土砂が堆積したまま放置されたダム          

悲劇の場の隣町は文字通りすぐ隣だ。川の上流側だったので、こちらの犠牲者はごくわずかである。その町、
カステッロ・ラヴァッツォ(Castello Lavazzo 498m)の背後の丘の上に、小さな教会が建てられた。訪れる人とていないその地に立ってはるか眼下に川面を見下ろすと、ダム建設のための信じがたいほどの立地条件のよさとともに、あまりに安易な建設がもたらした大きな犠牲の様が、手に取るように見て取れる。
犠牲者を悼み建設された教会
犠牲者を悼み建設された教会           


今回の旅の仲間は姓をゾルダンという。宿をとった町の名はフォルノ・ディ・ゾルド。なんとも似ているではないか?二人して町の人に聞いてみた。それによると、ゾルド姓はこの辺りではいちばんありふれたもので、貧しかったその昔、たくさんのゾルド家がこの町(村)を捨て、新天地を求めて集団で山を下り、はるか遠く南米にまでも移住した。以来幾星霜、孫子の代になって、ゾルドの町と、南米のその町(名前は忘れた。でもイタリア語の地名だった記憶がある)は姉妹都市の約定を交わした。その記念碑がマエ川岸にある。仲間はフランス国籍を持つが、父親はこの辺りの出身である。ロンガローネの悲劇は他人事でない。

Forno di Zoldo 移民先との姉妹都市碑
Forno di Zoldo 移民先との姉妹都市碑

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giovedì 2 maggio 2013

ドロミーティ・アルプスを歩く (2)

宇都宮 和代

<2>

トレヴィーゾ空港(A. Treviso)に降り立ち、構内の窓口でレンタカーの手続きをする。窓口氏はキーを渡してくれたなり、「自分で取りに行け」。500mほど歩いて、行った。いっぱい並んでいる、車が、だ。係員?誰もいない。どうする?うろうろしていたら先ほどの窓口氏がたまたま、という感じで通りかかる。「この辺の車だよ」。なるほどね…で、荷物を積んだ、乗った、出発した。頭がおかしくなりそうなほど暑いから、碌に計器だって調べる気がしない。なんとかなるだろうし、考えてみればここはイタリアだ…ちょっと国境を越えただけで、気分さえ心なしアバウトになったのは、いいことかもしれないし、気楽に行きたい、いや、いければいい。ヴェネチア市内方面でなくその反対側へ、つまりヴェネト州を一路北上する。車は小型車、それなりにきれい。ナビはついてないけどクーラーはそのうちちゃんと効いてきたし、ペダルから足をはずすとなぜかエンストばかりするけど、すぐまた始動してくれるし…(注:二日目からは慣れたせいで問題解消。燃費も悪くなかった=こちらのガソリンは高いのだ。)夕方に着陸したから、その夜はコネリアーノ(Conegliano)に投宿。中国から来たツアー客(ヴェネチアに行く人たち)と重なったせいで、間違われてちょっとした目にあった。朝食時、入り口でウエイターに遮られて「どうぞあちらからお入りを…」。団体客が食堂の奥の方に押し込められて別メニューだなんて、その昔、私にも何度か経験がある。エレベーター内に張り紙もあった。「請安静!!」こちらはツアー・コンダクター氏の仕業だろう。眺めていたらホテルの従業員が「彼らは感じがよくない」(Sono cattivi!)と強い口調で一言。騒がしい、と言いたいのだろう。これまた我ら同胞(日本人ツアー客)の二昔前の姿そのままだ。

8月半ばを過ぎでも依然として、これからヴァカンスだ、という家族も少なくないのか、道は高度を上げるにつれ、渋滞気味になる。やがて車窓から、この地方特有の山々が、石灰色の切り立った、そしてごつごつと険しいドロミテの山々が姿を見せ始める。やあ、来たぞ、来たぞ!幹線を外れてからは清流沿いに上流へ。ところどころに散在する集落の、その家々のベランダに咲き乱れる赤い可憐な花々が華やぎを増す。観光産業が生業の中心になり得て以来、長年の貧困から脱却できたこの地域が盛期に入ったときの、一種独特の小奇麗な、たとえ人けがなくて静かでも、どこか活気漂う雰囲気が一気に押し寄せてくる。

Monte Pelmo (3168 m)
今回、ネットで予約ができたのは標高840mのフォルノ・ディ・ゾルド(Forno di Zoldoという小さなVal di Zoldo)と呼ばれる一帯にある。明峰ペルモ山(M. Pelmo 3168m)へは、その前進基地になる。ドロミーティ山塊は「青白き山々」(Monti pallidi)と評されると聞く。山麓から途中までは草木がびっしりと生い茂り一面の緑でも、頂上に近づくはるか前から突如変貌し急傾斜と化し、白い絶壁のみ屹立して容易に人を寄せ付けない。歳月が、そうして雨風が、余計なものを洗いざらいそぎ落としてしまって、残ったのは堅い岩ばかり、とでも言うべきこの一帯に特有の山容が、あちらでもこちらでも……。たとえ標高が3000mそこそこでも我ら初心者を十分すぎるほど威圧し堪能させてもくれて飽きさせない。そうだ、触れたかったのは、まさにこの眺めだ。
町のレストラン付プチホテル(イタリアン・レストランが民宿も兼ねていて、庶民的なオーベルジュといったところか)で、ドロミテ山中の、ゾルド渓谷(実のところ、出発前に日本で、主にネットを頼りに情報を集めたものの、全容がなかなかつかめなかったのがこの地域だった。図書館や書店で資料を探してもあまりうまくいかない。よい地図も手に入らない。だから、出たとこ勝負の旅になりそうだったし、本当に行けるかどうかも、実のところ不明なまま出国せざるを得なかった。結果からいえば、旅のそもそもの動機になった紀行文(角田光代著『あしたはドロミテを歩こう』-イタリア・アルプス・トレッキングー、岩波書店 2004刊)で紹介されて以来憧れた山や地域―トレ・チーマ、コルティーナ、サッソ・ディ・ストーリア (Tre Cime di Lavaredo 2998m, Cortina d’Ampezzo 2327m, Sasso di Storia 2183m) ーのいずれとも縁が持てなかったばかりか、名高いトレ・チーメ(三つの頂=山頂のとんがりが三つある)など垣間見ることさえままならなかったのだから、一人前の顔をしてこの地域について何か書く資格は私にはまだないのが本当のはなしだ。「(このエリアは)入り組んでいるため理解しにくい」と(ネットで)教えてくれた人がいるが、まさにその通りだ、と書くと言い訳めくが仕方がない。

何も知らないでやってきた、では、動きがとれない。翌朝一番に、どんな小さな町にも必ずある観光案内所に飛び込んで教えを乞う。「日帰りで6時間以下、標高差600m程度、シニア向けのトレッキング・ルートを教えてください!」事務所は閑散としていて訪問者は我々だけ。退屈していたらしい係員はとても親切。こことそこと、あそこにしなさい。。。詳しい地図もガイドブックも手に入った。かくして、その程度の条件ですら「歩き通せる自信がない、ヤダ」とこの期に及んでも尻込みばかりする同行者のお尻を叩いて車で出発することにした。

関東近辺のトレッキングが富士山を見たがるように、スイスでのトレッキングが例えばマッターホルンを正面から、横から、そして後ろから眺め楽しみつつ歩けるようにルート設定をしているのと同様に、この辺りでは要するに、雄々しくも富士山の如く、或はマッターホルンの如く孤独に屹立するペルモ山の周囲をあれこれ手を変え品を変え迂回するのが、本格登山ならぬ、ただの山好きの醍醐味となる。まずは「ケーブルで登れるから楽だよ」と教えられたコルダーイ山(Monte Coldài, 2403m) 方面へ。案ずるより産むがやすし。目的地のコルダーイ小屋(Rifugio « A. Sonino » al Coldài 2132m)まで標高差は620m。周囲は家族総出の登山客でいっぱいである。一歳になったかならないかの赤ん坊を山用の背負子で背負った父親があちらにもこちらにも…やあ、犬もいる。何匹もいる。声高に聞こえるのは全部が全部イタリア語。あらまあ!何よりびっくりしたのが、彼らの出で立ちだ。軽装、なんてレベルではない。登山靴だけはみな立派だが、短パンに上半身裸の男たち、何度眺めてもあれは本物の水着(ビキニ)に違いない、と思える半裸の中年女性。当然のこと、みな顔も背中もすでにおそろしく黒光りしている。かたやこちらは長ズボンに長袖シャツ、焼けたくないから首にもタオル、おまけに思いっきり幅広の麦わら帽子までかぶっている。こんなのは私一人だからして、たいそう目立つ。目立つけどそんなことかまってはいられない。これ以上のシミと皺はフルフル嫌だ、願い下げだ。それにしてもここは海辺じゃない。日光浴も兼ねるのが彼らの山登りだなんて、私は知らなかった。

雲一つない炎天下、日陰もなく乾ききった岩場ばかりをひたすら登りに登り、それでもわずか一時間半で山小屋に到着した。着いたとたんに女の子が、ボーイフレンドと二人でやってきた十代とおぼしきその子が人目もものかわ、汗みずくになったTシャツを脱ぎすてる。当然、残るはブラジャー一枚!もちろん炎天下のできごとで、周囲は一息ついた登山客でいっぱいだ。あらまあ!そりゃあ顔も下着も可憐で可愛いけど…ついでに書くと、その翌々日、別の山中で、60代くらいの恰幅のよすぎるおばさんが、全く同じことを……。
Rifugio al Coldài (2132m) 付近のイタリア人登山者たち
その胸元は今も瞼に鮮やかに甦るほど巨大だったわァ……。さてここコルダーイ小屋はとても立派な山小屋で、食事もできる、というかちゃんとしたレストランがある。でも我々はコーヒーだけ頼み、あとは朝ごはんの時にこっそり作成したパニーニと持ち去った果物とでお昼ごはん。澄みわたった青空と雄大な山並みを楽しもうかー。なのに、わが目はその期に及んでも周囲の人々の様子ばかりに吸い付いてしまう。大型犬がいる、おとなしいけどその威厳は辺りを睥睨せんばかり、あっ、シャツを干してるぞ、あら、あんなにアルコール飲んで大丈夫なの?エトセトラ、エトセトラ。山の初日はヴァカンス気分満載で過ぎた。
宿の食堂
帰り途。ケーブルには乗らず歩いて下山する。人通りはまばらだ。しめて6時間。やっぱり疲れた。車で宿に向かうその道路沿いにはおしゃれでこぎれいな店がちらほらと。ジェラートを買うべくお店を探す。あった。同じの思いのヴァカンス客が、打ち合わせを兼ねたビネスマンたちも集まってきて、行列ができた。宿の夕食は日替わり定食で、宿賃は二食付きで一日6500円(飲み物別)。この地方の郷土料理ばかりでとてもおいしい。イタリアは料理にはずれのない国だ。川に面した窓際は老夫婦の定席で、つかまり歩きしかできない夫に付き添う妻と宿の女性が二人して慣れた風情であれこれと世話をする。あちらの席では昨夜は一人ぼっちで食事をしていたおじいさんを囲む祝の宴が始まった。この夜のためにはせ参じた息子、娘夫婦や孫たちと、うれしそうに語らっている。けれどその翌日からまた一人ぼっちに戻ってしまった。これもまた人生だ。
Forno di Zoldo (840m)の町
 Maè川右手が宿舎、遠くに見えるのはDolomitiの山々

 I SENTIERI DI ZOLDO -  LAGO COLDAI (2143m)

  • Difficoltà: facile, anche per bambini
  • Tempo: 3-4 ore AR
  • Dislivello: 620 m
  • Segnaletica CAI: 564, 556
  • Acqua: sì
  • Posti di ristoro: bar-ristoranti a Palavèra, rifugio Casèra Bosconero
  • Punto di partenza: sp 251 a Palavèra
  • Anche invernale (CASPE): si  



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