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この地方のある小さな町の小さな博物館で見かけた詩を紹介しよう。IL MIO PAPÀIl mio papà era lontano19世紀後半にやっとのことで統一を果たした後も、イタリアは豊かな国では決してなかったから、ほかの同様の事情を持つ国々(日本だって例外ではないが)と同じく、国内外への出稼ぎや移住者があとを絶たない時期が長く続いた。童話でアニメにもなった『母を訪ねて三千里』の主人公、マルコ少年がイタリア出身だったと私が再認識したのはとっくの昔に子どもではなくなってからのことだが、この詩はそうした歴史的事情を物語ってもいる。どこか「遠くで働いていた」少年の父は、年に一度、「クリスマスに」だけ帰還するのを習いとする。その彼が出稼ぎを中断して急ぎ故郷へ帰らなければならなくなって、でもそれは残してきた家族全員の不慮の死を確認するためだった。「僕も、ママも、おばあちゃんも、もうパパを待てなくなったけど、どうか元気でいてほしい」……わかりやすい、そうしてむしろ過激に感傷的なことばではあっても、この詩は事件の悲劇性と時代性を表現して余りある。この町の名はロンガローネ(Longarone 474m)、少なくとも私にはなじみがなかった地名である。
a lavorare
ma a Natale sarebbe tornato
e io l’aspettavo.
È tornato prima di Natale
ma io non ho potuto aspettarlo:
siamo andati via
prima di Natale
io, la mamma e la nonna.
Non è stata colpa nostra, papà.
Ti vorremo sempre bene.
丘の上から眺めた Longarone の町 |
正確に言えばダムが決壊したのではなくて、人口湖周囲の土砂が一晩で崩れ、そのため、みるみる盛り上がり溢れ出た湖水が闇の中、一瞬にして眼下の町全体を飲み込み、約ダム現場はその後、当時のままに放置される。干上がった湖も、ダムの巨大かつ頑丈なコンクリートの壁もそのままに、今では一種の観光地になっていて、事情を知るおじさん達が訪れる人々に、言葉巧みに説明しながら、粘土で自作した(らしい)ダムの模型などを売りさばいている。その傍らでは、道路に沿って延々と、とりどりの色あせた布切れが、その一枚一枚に死者の名前と年齢が書かれた無数の四角い布が、書かれた数字が端的に示す死者の無念すぎる若さが、幼さが、風にはためいて哀切きわまりない。
土砂が堆積したまま放置されたダム |
悲劇の場の隣町は文字通りすぐ隣だ。川の上流側だったので、こちらの犠牲者はごくわずかである。その町、
カステッロ・ラヴァッツォ(Castello Lavazzo 498m)の背後の丘の上に、小さな教会が建てられた。訪れる人とていないその地に立ってはるか眼下に川面を見下ろすと、ダム建設のための信じがたいほどの立地条件のよさとともに、あまりに安易な建設がもたらした大きな犠牲の様が、手に取るように見て取れる。
犠牲者を悼み建設された教会 |
今回の旅の仲間は姓をゾルダンという。宿をとった町の名はフォルノ・ディ・ゾルド。なんとも似ているではないか?二人して町の人に聞いてみた。それによると、ゾルド姓はこの辺りではいちばんありふれたもので、貧しかったその昔、たくさんのゾルド家がこの町(村)を捨て、新天地を求めて集団で山を下り、はるか遠く南米にまでも移住した。以来幾星霜、孫子の代になって、ゾルドの町と、南米のその町(名前は忘れた。でもイタリア語の地名だった記憶がある)は姉妹都市の約定を交わした。その記念碑がマエ川岸にある。仲間はフランス国籍を持つが、父親はこの辺りの出身である。ロンガローネの悲劇は他人事でない。
Forno di Zoldo 移民先との姉妹都市碑 |
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