venerdì 15 febbraio 2013

歌って、演じて、イタリア語

ローマの平日 イタリアの休日
コモンズ刊  大原悦子著

(traduzione italiana)
私はイタリア語をまったく話せなかった。新聞記者をしている夫の転勤で、急に決まったローマ暮らし。日本を発つ前にせめて簡単なあいさつと10までの数字を覚えようと思っていたのに、いくら頑張っても5から先は忘れていた。
そんな心もとない状態でローマに着いたその日のこと。バール(イタリア式のカフェ)で牛乳とサンドイッチを求め、レジで支払いをしようとしたら「……ズッケロ?」と言われた。はて、なんだろう。状況から察すると、商品を入れる紙袋は必要か、とでも聞かれているのだろうか。私はとりあえずうなずいてみた。まさかレジの下から砂糖の小袋が二つ三つ出てくるとは思いもせずに。
Roma, foto di Paola Soave
ズッケロが砂糖であることを、私はその時初めて知った。甘いもの好きのイタリア人のなかには、牛乳にも砂糖を入れる人がけっこういるらしい。かんじんの紙袋はけっきょくもらえず、私は牛乳とサンドイッチと砂糖を抱えながら「このままではいけない。イタリア語をちゃんと勉強しよう」と決意した。翌週からさっそく、ローマの中心部にある外国人のための語学学校に通い始めたところがーー。
「辞書はしまって」「ノートもとらないで」
先生からいきなり、こう言われた。読み・書き重視の日本の教育とは大違い。この学校は徹底的に聞くこと、話すことを鍛えるのだそうだ。私たち生徒はテープから流れてくるイタリア人同士の早口の会話を繰り返し、繰り返し聞かされ、「とりあえずわかったことをペアになって話し合って」と言われるのだった。
 けれど、なにしろズッケロ状態である。イタリア語の海のなかにいきなり放り込まれた私は、おぼれないように口をパクパクさせているのがやっとだった。先生の話す文章を、耳から聞いたまま復唱する練習もある。「イタリア語は“歌うように”話すということを忘れないでね」と言う先生のお手本は、タラッタラーッタ、タリラーッタ、とたしかに五線譜を流れているよう。ああ、そうか、イタリア人の身ぶり、手ぶりが大げさなのは、自らの歌を指揮しているからなのだ、と私はひそかに納得した。 そうこうするうちに数週間が過ぎた。「ねえ、ルイジとアンナが別れたって知ってた?」「えっ、本当!? だってこの間まで結婚式の準備を進めていたじゃない?」「それがね……」。こんなやりとりを、噂をしている友人たちになりきって話しなさい、という。「ええーっ、ほぉんとぉおーー!?」と、心底驚いた顔と口調で言わないと、やりなおし。先生のリアルなお手本を見て、私たち生徒は大笑いしてしまったけれど、これでは語学の授業なのか、演劇の授業なのか、わからない。でも。考えてみれば、外国語を習うということは、異国の人々の文化や考え方にふれ、今までと違う自分を体験すること。ある意味では、その国の人を「演じる」練習と考えられなくもない。何年も辞書や教科書と向き合って勉強しても、日本人の英語があまり上達しないのは、ひょっとしたら、この演じる要素が軽視されているからかもしれない。ズッケロも知らなかった私は、少しずつ、少しずつだが、イタリア語を話せるようになった。「歌うように」というのは、まだ夢の夢だけれど、イタリア人を演じてみるのは、なかなか楽しい。
(traduzione italiana)

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